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-建築士の立場-
 いやいや~、2週間ほど空いちゃいました!ちょっと怠けてしまいましたね!
 気づいてみれば、明日からもう3月ですね!申し訳ありません! 
 
 では気を取り直して、建築士にもいろいろな立場・スタンス・考えで活動していることは、前回のコラムでお話しました。メーカーや工務店への依存(提携・下請け)型建築士が増加しているということ。僕が、そのような形で設計をしたことがないこともお話しました。このことは、夢の実現を望まれるお客様にとって、結果として多大な影響をもたらし、建築士の職能にも影響するのではないかと考えてしまうのです。

 一般的に、建築士は設計料を施工者から戴くものと、思われている方が多いようです。建築士の職能は、それでは全うできないと考えます。ではこの問題にお答えしましょう。

 建築士がお客様と設計契約(委託)し、報酬を戴く。これは、お客様の「純粋な代理人」になるということ(建築士の職能)です。設計も現場監理も、お客様の立場で遂行する。依存型(施工側から報酬を得る)の建築士なら、「施工側の代理人」として、仕事を遂行することになる。これは、施工側に従わなければならないということ。つまり、お客様の立場の人間が存在しないということになるのでは。不安ではないですか?

 これでは、結果として「真の住まい」は実現しない気がします。お客様が施工者に建築費を払います。私のようなスタンスの建築士(代理人としての建築士)は、その建築費が正当かどうかをきちっとチェックをします。しかし、その立場の建築士がいなかったら・・・。これも、不安ですよね。

 代理人としての建築士の現場のやり取りはというと、工事でおかしな所は、直していただきます。建築主の「純粋な代理人」だからこそできる行為。ところが、代理人としての建築士がいない場合はどうなんでしょう?僕はその立場に立ったことがないので明確にはわかりませんが、建築主に納得(妥協?)してもらってそのまま工事は進んでいくことが多いのではないでしょうか。これが最初、建築主にとって小さな不満であったものが、住み始めて後に大きな不満となって現われたりするものなのです。結果として、せっかくの「夢の住まい」への愛着心が損なわれることにつながってしまうのではないでしょうか。
 ・・・・・・建築士の職能は「お客様になる」ということ。僕はその「課題」を追い続けます。     (上島 ひとし)
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-建築家のいろいろ-
 僕は本が好きで、日頃からよく本屋さんに出掛ける。特に近頃驚くことは、住まいに関する雑誌が非常に多くなってきたことだ。肩を摺り寄せるかのごとく、所狭しと並んでいる。表紙を見ると、和風の住まい、洋風の住まい、ガーデニング、インテリア等など、情報がテンコ盛り。建築家が設計した家やハウスメーカーの家など、これでもかと言わんばかりにたくさん載っています。
 そこで皆さんにお聞きします。ハウスメーカーの家も工務店さんが直接建てた家も、それに建て売りで買われた家もすべて建築士の設計によって建てられているのをご存じだろうか。「えっ?」と思われる方もいるだろう。どんな家でもすべてそうなのです。
 国の法律に依るところもありましが事実は、建築士にもいろいろな立場・スタンス・考えで活動しているということなのです。工務店やハウスメーカーの社員として、また独立はしているがそれらの会社と提携(または下請け)していたり、完全に独立して活動したりと、いろいろな建築士がいるということを知って欲しいのです。
 僕は独立して12年ほどになりますが、提携(下請け)での仕事は一度もしたことはない。なぜか?それは、建築士としての職能を全うしたいからだ。建築士は、クライアント(お客様)の住まいへの夢を、形にすること。それ以外、何物でもない。あくまでも、お客様の側に立った設計がしたいだけ。
 提携(下請け)の場合、メーカーや工務店の側に立つことになる。つまりお客様の立場で仕事をしなければならないのに、逆の立場でお客様の夢を形にすることになる。(デザイン的に制限される場合もある。)それは、本当にお客様の側に立った仕事と言えるのか。
 「おかしい?間違っている!」と思う。だから僕は、絶対に提携(下請け)で仕事はしない。今までも、そしてこれからも。そのやり方はお客様と設計監理契約を交わしてデザイン・設計をして、工務店は入札で決める。
設計図面の枚数は通常の家で、40枚程度つくる。勿論、工事は竣工までしっかり監理する。(設計図どおりに工事が出来ているか徹底チェック。)
 それが僕のスタンス。建築士としての職能を全うし、お客様の立場で、一緒に夢を形にするお手伝いをしたいだけだ。それを業界では、「建築家」と呼ぶ!??                            (上島 ひとし)
-「家」と「住まい」-
漢字は、中国から伝わってきたと言われるが、「家」という文字の根源は、なんだろう。一説によると、中国では、「生きていくうえで、一番大切なものを屋根の下で養う所が、家である。」との考えで、当時は「豚」が何よりも大切だったようで、「家」という文字が出来たそうだ。これを知った時の、驚いたことを今あらためて思い出す。
ところで、「家」と「住まい」と書いたが、「意味は同じじゃないの?」と思われるかもしれないが僕は、大きな違いがあると思っている。「家」は、我々建築家が設計したものを、大工さんや工務店が造るそのものであり、「住まい」はその「家」に家族が住み、家族の心を紡いで一体となって、ようやく「住まい」になる。変な言い草かもしれないが、それだけの大きな違いがあるように思う。つまり、我々建築家は「家」を設計し、完成したそれを「住まい」に変える大きな役割を担っている。ただ要求された部屋数に合わせるだけの計画であってはならない。効率だけを追究してもだめだ。かといって、デザイン性ばかりを打ち出してもいけない。やはり、気をてらわない、あまり押しつけがましくないほうがよい。言わずとも「家族の心を紡ぐ」という基本を忘れず、家族の動線や間取りなどを考え計画しなければならない。
あくまでも、「長い間変わることのない確かな質」を備えて・・・・・。 (上島 ひとし)
-古都が銀世界-
とうとう京都に雪が降りましたね。
朝、家の中が何かいつもより明るい感じがして、しかも今日は土曜日で普段より静かなんだけど、今日はそれ以上に静かな気がして!もしかして雪が降っているのではないかと思い、窓を開けたら、なんと降っているではないか。
最初は嬉しいやら楽しいやらで、ウキウキとはしゃいでた(年甲斐もなく!)のですが、今日は打ち合わせの予定が入っていることに気づき、「どうしよう?」と現実に戻ってしまった。
僕は、北陸の生まれなので小さい頃から雪には親しんできたのですが、久しく雪を見ていなかったせいか感無量。雪は世の中の汚いモノをすべて覆い隠してくれます。その長くは続かない、幻想的なその「時」が僕は好きだ。木々が雪を被り、動物や人かと思うようなおもしろい形に変形していたり、和風の家々がこの時だけ北欧の家並みと風情を想像させてくれたり。
雪が降る音を「しんしん」と言ったりしますが、雑音が全く聞こえず耳を澄ませればまさにその音が聞こえてくるのです。(僕だけかな?)
いつもいろいろな方の家を設計していますが、庭に雪が降る光景を手に取るように見ることの出来る大開口のある家はいいですよね。姿勢を正し、じっと見ていると神聖な気持ちになってしまいます。(また、あのような家を設計したいなぁ!)
人は同じ空間を体験しても、それぞれ感じ方は違います。そのズレを解消することは出来ません。そのズレを活かす建築。家族がそれぞれ自分に合う快適な居場所を見つけることができる住空間。家族が個々に違う刺激を受け、そこに生きた語らいが生まれる。時代が進み、人の生き様も様々。これからは住空間が与える影響は想像以上に大きいような気がします。(あっ、ついつい仕事の話になってしまった。)
結局、今日の打ち合わせは雪のため中止になってしまいました。(あ~、仕事が遅れる~!)
-家づくりの真髄-
家づくりは一生のうち、そう何度もあるものではありません。当然、思いは強くなるものです。なかでも、家相や方位は当たり前のことでしょうが、このところ、風水を重要視されるお客様や、お抱えの易者(?)の方にみてもらうお客様が増えてきています。
 これまで手がけてきたプロジェクトの中で、基本計画に約1年の時間がかかったという物件もあります。「1年かけて何やってんねん。」と言いたい方もおられるでしょうが、私たちの仕事ではざらにあることです。あまり進まない訳はというと、先に述べた様々な要件やそれら以外の事柄が影響する場合があるからなのですが。
 これらは、やはり「住まい」に対して「安心」や「安全」「やすらぎ」を求めるが故の、こだわりではないでしょうか。私も建築家として、家相等それらのことは勉強しておりますが、これだという答えはないものです。お互いの考えが一致したときが「答え」だと考えます。
 人生とは「生まれてから、死ぬまでの時間です。」人生とは「自作自演の自己表現の舞台です。」つまり、私たちは「人生の表現者」。「住まい」はあなたの人生を演出する最高の「やすらぎの場」であり「舞台」なのです。
 それ故、こだわることに、時間は惜しみません。やはり、「あなたの住まい」ですから・・・・・。(上島 ひとし)
-「身の丈」のコミュニケーション-
昨今、メディアやマスコミで、また本屋さんに行くと、やたら「情報化」の文字が目に飛び込んでくる。人は多分、「情報化=IT化」と考えがち。技術論、コンテンツ論、ネット活用論、スキルアップ論等に終始するきらいがある。ある意味、仕方がないことかもしれない。
IT業界がけしかけ、この社会をそう仕向けたのであろうか。我々は、個々にあるいは地域、企業として、その潮流にドッカリと乗ってはいけないのでは。それを単に「情報の活用」として捉えたい気がする。
ITだけにとらわれない、地域や企業人としての情報の発信と受信、地域として、企業としての情報の活用。さらには、それを踏まえ、地域の情報活用、交流、コミュニティーの構築までも考えていかなければならないのかもしれない。私の建築設計の業界でも、IT化の波に揉まれているのが実情だ。かといって、お客様(クライアント)に対して、そのままデジタル的に応対すれば良いかというと、決してそうではない。やはり、顔の見える仕事、声の聞こえる仕事としてコミュニケーションを絶やすことなく、アナログで気負いのない納得のいく応対、仕事をしていくべきだ。(私はそうしているが)つまり、地域であっても、企業であっても、自分たちが共に考え、自分たちのための、自分たちに合った、決して、背伸びしない「身の丈」のコミュニケーションを考えても良いのでは。(上島 ひとし)
京都の冬景色
いや~!ブログって、なかなか毎日続けられないものですね。3日空いてしまいました。
でも諦めないで、頑張ります。
先日は東京にも雪が降り、交通機関の乱れや怪我人もでていましたね。僕は雪国の生まれ。雪を見ることが好きなので、あの時京都にもっとたくさん降ってくれと密かに思ってました。
そこでふと、日本における冬景色を考えてみました。雪が毎年降る地域は、雪に埋もれ、遠くに山があれば当然雪。まさに白一色の世界でしょう。雪を被った家々は、ある意味かわいいもの。木々も雪に埋もれ、白の中に緑のオアシスを演出してくれます。その景色は、いかにもまだまだ春が遠いイメージを我々に植え付けるものです。
 さて、京都の冬景色はどうでしょう。日本海側は雪ばかりでしょうが、あまり雪の降らない市内は我々がイメージする冬景色を演出してくれているのでしょうか。雪が降らなければ、冬景色と言えないのかというとそうではないように思えます。冬の京都御所は枯れ葉が舞い、静寂そのもの。歩けば砂利を踏む音が、いつもより大きく聞こえます。この雰囲気を味わうことは、滅多にないもの。雪が降れば、金閣寺や銀閣寺はこの世のものとは思えない世界をつくってくれる。雪は汚いものすべてを覆い尽くし、一時人間の心を洗い、身を正してくれますが、京都は雪が降っても降らなくても、その時々で、またその所々で、ならではの冬の景色を我々の心の中にまで映し出してくれているのではないでしょうか。そんな京都の冬、見つけに行きませんか!(上島 ひとし)
-非日常-
2月1日 今日からいよいよブログを始めることにしました。
京都に住む勝手な建築家が勝手に語る、勝手な日記です。
皆さん、末永くお付き合いしていって下さい。

 私は、一級建築士事務所を主宰しているが、建築設計という仕事はどちらかと言うと、事務所に篭もって仕事をする時間が長い。施工が始まると現場の監理があるので、しょっちゅう行くのだが、設計(図面作成)をしているときは、どうしても篭もってしまう。それに、クライアント(建築主)との打ち合わせは、どちらかというと都合で週末が多い。
そうなると、精神的に休まるときが少なくなってしまう。僕も生身の人間。たまには鬱憤ばらししたくなるというものだ。以前毎年のようにやっていたことだが、冬に悪友たちと集って日本海の朝市に出かけ、生のカニとカキを食べきれないくらい買ってきて、仲間の庭でカニはズンドウで茹で、カキは次から次へと網で焼いて、悪友ファミリーと一緒に飲めや食えやの大宴会をしたりしていた。ときにはその勢いで、近所の人たちも巻き込んで、まるで昔から知り合いだったかのように、仲良く楽しいひとときを過ごしたこともあった。
たまには、こんなことでもしないと、気が滅入ってしまう。これは普段味わえない、「非日常」ではないだろうか。「非日常」で思い出したのだが、「現代生活はソファーとベッドの生活が主流だ。」なんて言う人もいるだろうが、日本のほとんどの家には「和室」がしつらえてある。使われ方はというと?お客さんが来たときだけ使うとか、箪笥の置き場で着替えるときに使うとか、あるいはリビングの延長で、ついつい昼寝をしてしまう。まあ、様々だろう。そもそも、和室の起源は、座って使うことを基本にし、座って周りが一番良く見えるようにと考えられている。縁側の雪見障子がそれを物語っている。それが「非日常」と、どんな関係があるのかって?それは、和室によく仏壇を置くように、そこは神聖な場所。部屋の真ん中に自分の身を置き、座ってしか見ることのできない風景を眺めたり、空気を感じたりと、普段の「自分」を見つめ直す、いわば「日常」から自分を解き放ち「非日常」に自分を置く「回想」の場所である。
今の時代「原点回帰」で、たまには「自分」を見つめ直すことがあってもいいのでは・・・・・。
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